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番組構成師 [ izumatsu ] の部屋

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「自由こそ〜美の革命家/その名は瑛九〜」

◎『自由こそ〜美の革命家/その名は瑛九〜』

制作:UMKテレビ宮崎 放送:1996年4月20日

宮崎出身の画家、瑛九(えいきゅう)をご存じでしょうか?

故池田満寿夫さんは瑛九をこう評しています。

   「現代絵画の流れって、必ず、瑛九抜きにしてはもうね、
   語れないぐらい、瑛九の絵って、存在、大事になってきてるわけでしょう」

前衛絵画の先駆者でありながら、その権威に媚びない生き方ゆえに故郷・宮崎でも知る人の少ない画家・瑛九。
その一生を追いました。


◆ストーリー概略

瑛九、本名・杉田秀夫は、明治44年4月28日、宮崎市に眼科医の次男として生まれました。
小学校に入学した頃から、秀夫は独自の個性を示し始めます。学校という集団生活に、彼はまったくなじめなかったのです。
のちに瑛九は、当時をこう語っています。

   「僕は、小学校二年生の頃から学校をさぼり始めた。
   学校は、僕をじめじめとした嫌な気持ちにするばかりだった」

それは中学に進んでも同じで、一年の夏にはもう登校しなくなります。秀夫は画家になりたかったのです。
大正14年3月、美術学校へ入学するため秀夫は東京へ旅立ちます。まだ、13歳でした。

美術学校で絵の描き方を教わる秀夫。しかし、彼はそれに疑問を抱きます。学校で教わるテクニックを使っても、心に感じた印象をキャンバスに表現することができないのです。

   「『風景を描くにはこうすればいい』
   そんなテクニックなんて意味がない。
   描きたいことがあるのに描けなくて、混乱するばかり。
   いつも残るのは切なさだけだ。情けない」

その頃、秀夫は絵を描くことよりも美術評論を執筆することに熱中していました。美術雑誌に盛んに投稿。15歳の時、初めて掲載されています。
その内容は当時の画壇のあり方に鋭く切り込むもので、これを書いたのが15歳の少年だとは誰も気がつきませんでした。

   「私がやっているのは美術批評だ。
   現在、美術が一番民衆からかけ離れた芸術だから、
   それを叩きこわすために、美術批評をやっているのだ」

16歳の秀夫、自信満々の言葉です。


昭和6年5月。はたちになった秀夫は徴兵検査を受けるため、宮崎へ一時帰郷。
強い近眼の彼は、わざとめがねをかけず、やせた体によれよれの着物をひっかけ、検査に出かけます。結果は思惑通り不合格でした。
秀夫が徴兵検査に落ちた4ヶ月後、満州事変が勃発。日本は戦争への道を走り始めます。
戦争の色が濃くなる中、秀夫は、絵画の制作に熱中。数々の公募展に出品します。しかし、出品しても出品しても落選するばかりでした。

描いても描いても通らない。なぜなのか。なぜ自分の絵は認められないのか?
秀夫には、自分が世界一の絵を描いているという自負があったのです。秀夫のいとこは、秀夫の憤りを聞いています。

「彼は、今の日本の画壇は僕の絵を理解しないっていう、言い方をしてましたね、僕の作品は僕のでいいんだけども、それを理解するやつがいないと」

こんなに素晴らしい絵をなぜ分からない?
秀夫は悩み、酒を飲むことが多くなります。昭和8年の冬、22歳でした。

昭和9年の夏、宮崎に帰った秀夫は、兄弟たちと出かけた海で奇妙な行動をとります。波打ち際に正座したまま、潮が満ちてきても動こうとしないのです。
溺れそうになる秀夫を引きあげる兄弟たち。それでも彼は、打ち寄せる波の中、何度も何度も座ろうとするのです。

秀夫の奇妙な行動は、海から引き上げられてからも続きました。
塩をひとつかみし、まだ生きている鰯に塗りつけ、頭からかじりだしたのです。
口から血を流しながら、とりつかれたように生きた魚にかじりつく秀夫。肉親たちは、彼が発狂してしまったのではないかと恐れました。

その年の12月、秀夫は友人とふたりで鹿児島県指宿に出かけます。秀夫の神経を落ちつけようと、兄弟たちがすすめたのです。
指宿に宿をとった秀夫たちは自炊をしながら海岸などでスケッチをしました。

友人が帰ったあとも秀夫はひとり残り、絵について考え続けます。
友人へ宛てた便りには、おのれが命をかけようとしている絵画の世界に対する秀夫の苦悩が読み取れます。

   「おれは絵画に対する懐疑から出直す。
   絵画とは何ぞや。自己の生活と絵画とは何ぞや」

   「おれは息がつまる。ハマベの砂よ、夜のササヤキよ、
   俺はもはやつかれた。俺はまったく描けぬ。絶望へ今一歩の所か」

混乱した気持ちをいだいたまま描き上げた絵を、秀夫は美術展に出品しました。
友人へ宛てた便りには、なんとかして絵画の世界で生きたいという彼の切実な思いが正直につづられています。

   「俺はとんでもない間違いをやっているのかもしれない。
   そんな気がするとたまらない。
   どうか、この絵が通りますように。君も祈ってください」

その祈りが通じたのか、作品は入選。絵を描き始めてから、初めての入選でした。
しかし、この入選が秀夫の絵の世界に対する姿勢を一変させるのです。

自分の作品を見るため上京し、美術館に行った秀夫は、絵を審査という権威によって選ばれることにばかばかしさを感じます。

   「初めて美術館とやらに並べてみて、俺は少々あほらしくなってしまった。
   食いつきたい奴ばっかりだ。どんなことがあっても、俺は俺の好きなことを
   描いて行く決心をつけられる。
   はちきれる絶望感でキャンバスを叩こう。絶望が出発だ」

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昭和11年1月。秀夫は新しい創作を始めます。油絵でもなければ水彩でもない。写真に使われる印画紙に光で陰影をつけ、絵を描いたのです。
印画紙に直接焼き付ける技法は以前から存在し、「フォトグラム」と呼ばれていました。しかし、秀夫は光を絵筆のかわりとし、心の中のイメージをまるで絵を描くかのように印画紙に表現しました。それは、これまでにない全く新しい手法でした。

制作した作品を持って、秀夫は上京。画家の長谷川三郎と美術評論家の外山卯三郎を訪ねます。光と影が織りなす表現の斬新さに驚いたふたりは、その新たな表 現形態の呼び名を考えました。そして生まれたのが、光によるデッサン、『フォトデッサン』という名称でした。

新たな芸術の手法を生み出した秀夫は、この機会に名前を変えようと思いました。
「杉田秀夫」という名前は、過去のカスがこびりついているようでいやだ。この際、「キューピー」のような思い切り突飛な名前に変えたい。
そんな思いで考え、絞り出した名前、それが『瑛九』でした。

昭和11年4月、銀座で「瑛九フォトデッサン個展」が開かれます。秀夫がフォトデッサンを抱えて上京し、『瑛九』と名を変えてからわずか2ヶ月後のこと。
一青年・杉田秀夫は、新しい芸術家『瑛九』として注目を集めます。

二・二六事件が起きたばかりで騒然とする東京。その中を、わき上がる創作意欲を胸に、25歳の瑛九は飛び回ります。
しかし、彼が目にしたのは、ひと握りの大家が絶大な権力を持つ画壇の現実でした。瑛九は友人に宛てた手紙に「画壇に失恋した」と書いています。

   「僕は日本画壇に失恋したうっとうしい感情の中で不眠症にかかる。
   画壇に失恋した以上、恋の痛手は芸術という母さんにたよらねばならぬのだが、
   僕は、母の愛情よりも恋人を求める一般の大学生とかわらない」

瑛九は強いの不眠症に陥りながら、制作をやめませんでした。そのため、病状は悪化。心を痛めた家族は、宮崎・青島の海岸に小さな家を借り、彼を静養させます。
しかし、画壇に失恋しても、絵を恋い慕う思いを捨てることはできません。真の画壇、真の芸術はどうあるべきなのか? 瑛九は自らを追い詰めていきます。
痛々しいほどに敏感な彼の神経は、極限にまで張りつめ、まさに切れんとしていました。

昭和13年1月5日。瑛九は冷たい風が吹きつける宮崎市の高台で号泣します。
眼下に広がる宮崎平野。新春の光にきらめく家並み。
その美しさを目の当たりにし、感極まった彼は、草むらにうずくまり、声をあげて泣いたのです。

自然の美しさに号泣した瑛九。顔面蒼白で自宅へ戻った彼は異常な行動をとります。
兄弟たちを正座させ、面がよくない!、アメリカ頭を切りかえろ!などとののしったのです。

この出来事があって間もなく、瑛九はそれまでに描いた膨大な量の作品をすべて風呂の焚き口で燃やしてしまいます。
含んだ油で勢いよく燃えあがる瑛九の絵。風呂の湯はあっと言う間に煮えたぎります。止めようとしても瑛九はやめません。
風呂に水を入れ続けるお手伝いさん。瑛九は焚き口で自分の絵を燃やし続けます。
作品を燃やすことで、瑛九は過去と決別したのです。

その頃、中国との戦争は長引き、国民は国家に対する奉仕を強要され始めます。戦争への緊張感が瑛九の周囲にもみなぎっていました。
そんな中、瑛九はめがねをはずし、袴を着け、ステッキを手に、宮崎の街をあてどなく歩きまわっていたのです。

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自らの作品を消し去った瑛九は2年ぶりに上京。栃木県真岡(もおか)の友人宅に逗留し、豊かな自然を相手に再び油絵を描きはじめます。

昭和13年12月、瑛九はある女性と知り合います。この出会いが瑛九を変えました。

   「僕はこの女に死の秘密を語ることが出来たのです。
   今では彼女と僕は死によってつながれているのです。
   その意味で彼女は僕に絶対の愛を教えてくれました」

兄への手紙に瑛九はこう書いています。

「愛も死も彼女にまかせた」
女性への愛にめり込むことは、同時に、瑛九に芸術への意欲をもよみがえらせました。彼は結婚を望みます。でも、その思いは実りませんでした。

愛する女性は去りました。
しかし、瑛九は、愛、そして死までを他人にゆだねることができたのです。この体験をきっかけに、瑛九は長く続いた精神的な不安定状態から脱していきます。
彼は友人に宛てた手紙でこう語っています。

   「戦争の混乱が、そしてまた僕個人の混乱が教えてくれたのは
   『人間−愛』であった。僕は自己を取り戻した気持ちでいる。
   今は、すべてが愛につながり、それが人間性を作り上げる。
   芸術はその上に花さくものであるということの喜びにひたっている」

昭和16年12月、太平洋戦争が勃発。政府は国民に耐乏生活を強要。美術界も絵の具やキャンバスなど、絵を描くための材料を統制するようになります。
さらに政府は絵画で国民の戦闘意欲を高めることを計画。陸軍、海軍ともに画家を戦地に派遣し、戦場をテーマとした絵、いわゆる戦争画を描かせて展覧会を開催しました。
戦争画を書くことで、画家は画材を優先的に手にすることができ、またその名をあげることもできたのです。

その頃、瑛九は宮崎市に戻り、街角や海岸などでスケッチをしていました。
彼は戦争画を強く否定しています。

   「芸術は絶望せる人々に希望を与えるものでなければならない。
   芸術家は近ごろのような戦争画をかくことで民衆を鼓舞し、
   民衆を永遠の希望にみちびくことが出来るでしょうか」

戦争には絶対反対だった瑛九。ある時、彼は甥にこう語りかけています。

「絶対、捕虜になって帰ってこいと、うん、もう、徹底的に言いましたね、絶対生きて帰ってくるんだよって、アメリカはね、手をあげりゃあね、もう絶対何もしないんだから、絶対捕虜になって帰ってこい」

日向は天孫降臨の地。人々は「日向こそ日本の始まり」と誇りにしています。
昭和12年に『祖国振興隊』を全国に先駆けて結成、昭和18年には県の人口の4分の1を祖国振興隊員が占めるという土地柄です。
その中で「捕虜になっても生きて帰れ」という瑛九の考えは、自らの命を危険にさらすものでした。

しかし、自らの絵を高めることに没頭していた瑛九はこうも言っています。

   「今、ピカソに5年遅れているとしたら、
   平和になった時には20年は遅れていそうで心配だ」


昭和20年3月18日。宮崎はアメリカ軍による初めての空襲を受けます。姉、妹らと共に宮崎の山里へ疎開した瑛九は、兄に次のような手紙を書きました。

   「僕は滅ばねばならぬものが滅びつつあるように思われて仕方がありません。
   祖国のあやまちも暴露されるでしょう。
   やがて、滅びの中から真の希望は生まれるでしょう」

手紙の日付けは8月3日。
それから12日後。瑛九の記した通り、日本は戦争の終結を敗北という形でむかえるのです。

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昭和26年、瑛九は『デモクラート』という会を結成します。既成概念にとらわれず、自己の芸術を自由に追求することを目標としていました。
『デモクラート』が特にユニークなのは、たったひとつしかきまりを持たなかったこと。それは、他の美術団体の公募展に参加しないということでした。その意味は、画壇が持つ権威を否定することにありました。
メンバーのひとり、池田満寿夫さんはこう語ります。

「既成画壇に対する反発ですね、つまり、日本ってのはピラミッド構造でしょう。そうすると、弟子と師の関係ができてさ、全部なれあいで入って行くんです よ、入選したり会員になったりね、そういう構造で出来上がってるんですよ、だから、お花とかさ、それからお茶とかの、あの世界と同じなんですよ、家元制度 なんですよ」

他の美術団体と違う『デモクラート』の特徴がもうひとつあります。参加したのが画家にとどまらなかったということ。
写真家、デザイナー。バレリーナや編集者もいました。ジャンルにこだわらず、多彩な人が集まったのです。

「つまりデモクラートとは何か、極端に言うと、勝手なことやったってことなんですよ、デモクラートは、うん、これは僕、一番素晴らしい、ひとつの運動とい うことよりもね、ほんとにそれぞれの画家たちがね勝手なことをやってですね、みんなはみ出た連中がさ、勝手なことやってたという、ひとつの集団だったと、 僕は思うんですよね」
(池田満寿夫)

『デモクラート』を結成した翌年の昭和27年、瑛九は本格的な創作活動に入るため、宮崎から埼玉県浦和市に移り住みます。
静かな住宅街の一角にある瑛九の家。現在は夫人の都(みやこ)さんがひとりで暮らしています。

「茅葺きで、すごくね、ほんとに茅葺きのすごいおうちだったんです、きれいで、きれいっていうより、ああここだったら瑛九はお仕事ができるなぁと」

瑛九のアトリエ。あめ色に光る板張りの床は瑛九が使っていた時そのままです。
ここは彼の制作の場であると同時に芸術を志す若者たちが毎日のように集まり、議論する交流の場でもありました。
芸術について語り合う若者たちと瑛九。時には議論も伯仲します。都さんは学生が涙を流しているのを目にしたことがあります。

「私、どうしたのかしらんと思って、どうしたのって聞く必要もありませんしね、そんなところで皆さんで何か議論したのかなにか知らないですけどね、ポロポロ涙を流してるんですよね、それが忘れられません、私は」

瑛九と語ることは、若い芸術家たちの心の糧となっていきました。池田満寿夫さんは瑛九のくれたヒントが制作活動への突破口となったと語ります。

「当時、僕は食えなかったもんで、似顔描いてたんでね、お前、似顔描いてたんじゃだめだと。瑛九がね、これ、一番大きな、僕にとっての資産なんですけど ね、色をやれって言うんですよ、色、色銅版をやれと、なぜならね、当時、誰も色をやってなかったんですね、銅版画で色っての、やってなかったんですよ」

数々の若い芸術家たちが、自らが追い求める芸術を自由に模索し、語り合った『デモクラート』は、昭和32年に解散します。活動期間はわずかに6年。その解散の理由はこうでした。

「瑛九が言うのにはですね、こういう会ができて、デモクラートの会ができて、時間がたてばたつほど、権威ができるって言うんですね、我々は権威を、とにか く拒否しているグループだから、もう、ここでやめようというので、賛成の人っていうので、みんな挙手したんですね、したら、賛成の人が少なかったんですね (笑)、でもやめたんですね」
(画家・靉嘔)

権威というものを徹底的に嫌った瑛九らしい幕の引き方。でも、若い芸術家たちが瑛九の元に集まるのは以前と少しも変わりませんでした。

「もう、わきあいあいですね、まず酒飲みながらですね、もう、瑛九は夏なんてな、もう、片肌脱いでねこう、あぐらかいてね、これはもう、なんか、親分だなぁなんて言ってね(笑)」
(池田満寿夫)

「お酒を飲んで、酔っぱらうと、何で、我々がお酒を飲んで酔っぱらったのかなってことをね、熱心に(笑)、反省したりするんですね、面白い人でしたよ(笑)」(靉嘔)


浦和に移ってから、瑛九の作品は徐々に注目を集め、美術雑誌にも頻繁に取り上げられるようになっていきました。特にフォトデッサンは、海外で高く評価されたのです。

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画壇で注目は集めるものの、瑛九の作品は、売れなませんでした。
そんな時、瑛九を経済的に支える人たちがあらわれます。瑛九の講演に参加したのが縁で、福井の小中学校の美術教師たちが集まって『福井瑛九会』を結成。毎月瑛九の作品を一点づつ、購入するようになったのです。
福井の若い教師たちは給料の一割近い金額を毎月出し合い、瑛九の作品を購入していきました。妻の都さんはこう振り返ります。

「あの人たちは、ほんとに、経済的なものをね、支えてくだすったわけですよね、いつも、それを買って十号、毎月、毎月、十号を一点ずつ送るんですよ、描いて、それが、大体、生活の支えになってましたよね」

瑛九は『福井瑛九会』の人たちに感謝の気持ちをこめてこんな手紙を送っています。

   「僕の作品が、福井の仲間たちによって灯火をともされたこと、
   そしてこの灯火が風に吹き消されぬことをひそかに考えます」

その頃、瑛九の絵はまだ正当な評価を得てはいませんでした。『福井瑛九会』の会員たちは語ります。

「大学の、福井大学の美学の先生に、見てもらいに行ったんですよ、その頃ね、そしたら、これはひどいですよ、これは絵じゃないですよって言われたんでね(笑)、ほんとですよ」

「だからね、瑛九という絵描きを我々は正当に評価したという誇りがあるんですよ、誰も、日本列島、誰も気が付かないのに、我々だけがそれを評価したっていう誇りがあんですよ」

画商やコレクターなどではなく、普通の人たちが画家の制作活動を支えた『福井瑛九会』。その会員たちを最初に引きつけたもの。それは、瑛九の絵の魅力ではありませんでした。

「その人柄に惚れていたということだと思いますけどね、ええ、絵は正直なところ、あの、来る絵、来る絵、みんなね、まぁ、こう内心、あれあれっとこう思うようなこと、多かったですよ、正直なこと言いますと(笑)」

「瑛九さんていう人物のね、そういう持ってる魅力っていうのか、そういうものの方に、先にひかれたんですね、で、だんだんだんだん、その絵を見てるうちにね、それが、ああそうか、ああそうか、と」

人柄から瑛九の絵に接するようになった福井の人たち。しかし、最初の印象は時がたつにつれて変わり、瑛九の絵は彼らを虜にしていきました。
そして、人々をとらえた瑛九の人柄は、今でも会員たちの心に強く刻み込まれているのです。

「瑛九は武装してないんですよ、武装、うん、だから瑛九のところへみんなきますよ」

「とっても自然で、それでいて、温かいっていうのかもう、大げさなんじゃなくて、すごく自然なんだけど、心のこもった、そのね、受け入れ方っていうのか、もう、すっと入れるっていう感じ」

「我々と対等でしゃべってくださるでしょう、で、絵描きっていったらなんかこう、師匠さんみたいなねなんか親分みたいな、そういうところが全然ないですよね」

相手が誰であろうとも、対等に考え、話す。瑛九のその姿勢は若い頃からのものでした。池田満寿夫さんはそこに瑛九という人間の基礎を見ます。

「やっぱり、瑛九の素晴らしさってのは、あの、ほんとに話してる時はね、瑛九ってのは、あの、いわゆるこう、親分子分ってことじゃなくてね、やっぱ対等なんですね、彼は、やっぱり一番大事にしたのはデモクラシーですから」

瑛九はユーモアのセンスも持ち合わせていました。
学校の教師が集まったある勉強会でのこと。あまりに堅苦しい雰囲気に嫌気がさした瑛九は、いたずらをたくらみました。同席していた画家の靉嘔(あいおう)さんは、今思い出しても笑いがこぼれます。

「瑛九さん、みんなでポルノ作ろうというんで(笑)、ポルノをみんなで描きましてね」

こうして作ったポルノ画を瑛九は勉強会に出席していた女性の教師たちに見せ始めます。いい作品を見せてあげるからと先に料金を徴収し、ポルノ画を次々と見せていったのです。

「僕がはっとこう、見せると、瑛九がね、はい、やめってこう言うんですよね(笑)、3秒間でやめってね、次のは、えいっ、はい、3秒間、やめってこう (笑)、ずいぶん、金、儲けましたけどね、そしたら、それの、女の先生ですから、みんなね、集まってきたの、幼稚園の先生。ところがその旦那さんが怒っ ちゃいましてね、瑛九だけ呼び出されて、で、なんでこんな、偉大なアーティストがこういうくだらないことをするんだって、怒られた怒られましてね。瑛九が 戻ってきてね、僕、怒られちゃったよ、って言うんですよね(笑)」


浦和のアトリエで瑛九は、油絵だけでなく、エッチングやリトグラフにも取り組みました。特にリトグラフは、瑛九自ら病気と言うほど熱中しています。

「リト始めたら、ほんとに僕らに会うときは職人の格好をしてましたから、鉢巻してね、夏なんかね、ランニング一枚でさ」(池田満寿夫)

「自分の心のここで表現したいものをエッチングでやり、ここで表現したいものを油絵でやり、ここで表現したいものを写真でやりっていう風に、表現すればいいんじゃないか、そういうことを自由に選ぶのが、ほんとの自由だということですね」(靉嘔)

色々なものに手を出すことについて、瑛九自身はこう言っていいます。

   「油絵だけを描いていたり、水彩専門、版画専門など、
   各々の専門的権威で一杯の画壇は窮屈です」

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昭和33年秋、瑛九は次のような内容の手紙を『福井瑛九会』の会員宛てに書いています。

   「僕は啓蒙家で、絵画の周囲をぐるぐるまわっていて画家だと
   思っていたのです。懐疑と躊躇に充ちた啓蒙家だったのです。
   こういう自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、
   最後の冒険を試みようとしています」

「今度は油絵、ものすごい、あの、集中力で描き始めましたよね」(池田満寿夫)

若い芸術家たちと語り合うのは以前のままでした。そして寝る間を惜しみ絵画に没頭する瑛九。妻の都さんは不安な気持ちで見守っていました。

「終電車までいて、みんな若いのが帰るでしょ、そうしましたあと、私、あとかたずけ、彼はもう、それから作品作りになるんですから、痛めましたよ、体をね、ほんとに」

体調を崩しながらも、瑛九は大作にとりかかります。それは小さな点を無数に重ねていく「点描」という手法で、極限までの精神集中を必要とするものでした。

「もうほんとに僕らが行って話をするのさえもね、彼もうわずらわしかったと思う、自分の仕事に時間を欲しかったんですよ。それくらい彼は集中したんですか らね、これはすごかったですよ、行くたんびにね、うぁーっと、アトリエ中が絵ですよね、で、どんどん大作になってくでしょう」(池田満寿夫)

「言葉なんか、かけられないですねぇ、もうお食事ですよ、とか、用意ができましたよっていうことも、全然言えないんです、もうね、ほんとにとりつかれたみ たいにね。あの人、夜、寝たかしらん、夕べ寝たかな、と、私が気をつかうくらいに、もう、恐いくらいでしたからね、あの、点描で」(都さん)

昭和34年10月、瑛九は二〇〇号の大作に挑み始めます。
二〇〇号、縦2メートル60センチ、横1メートル80センチあまりのキャンバスは、アトリエの天井にまでそびえる大きさ。その巨大な白い平面に、小さな点を積み重ねて行き、埋め尽くそうというのです。

   「これを描くと僕としても発見があることと思っています。
   失敗するにしても。
   夜も描けるように蛍光灯に切り替えました」

瑛九の描き始めた絵。それは、最後の作品となる『つばさ』でした。

「あの点描のね、やっぱしあれ__ゥた時は驚嘆しましたね、あれはほんと驚いたです、うん、すごい絵、描き始めたなっていうね」(池田満寿夫)

「ほんとにもう、あれ、『つばさ』の中に自分が入ってるような感じでしたものねぇ、私が思いますのは『つばさ』が引き寄せて、早くおいでって言ってるよう な感じでしたよ、瑛九を、ろくろくゆっくりご飯も食べさせない私の会話もない、ただ『つばさ』にひきつけられていってたっていうような」(都さん)

二〇〇号の大作《つばさ》を描き始めてから一ヶ月余りたった昭和34年11月14日、瑛九は倒れます。

「倒れこんじゃった時にと見ましたらね、足首のところから腫れてるよのね、足が、私、ああ、足にむくみがきたらだめだって、母がよく言ってたんですよね」(都さん)

往診した医師はすぐ入院を指示。瑛九は浦和中央病院に入院します。慢性腎炎という診断でした。

入院中の昭和35年2月23日、東京・銀座の兜屋画廊で瑛九の個展が開かれます。展示されたのは、瑛九が入院するまでの2年間に描いた点描画9点。大作ばかりでした。
個展が開催された翌日、瑛九は東京・神田の同和病院に移されます。
弱った体にさわるからと絵を描くことはとめられていましたが、瑛九は「絵が描きたい、絵が描きたい」と妻の都さんに盛んにねだりました。

「あの、きかないんですよね、ただ、ちっちゃいスケッチブックと、色鉛筆だけでいいって言うものですから、私、神田の方へね、買いに行って」

スケッチブックを渡された瑛九は、子供のように喜び、ベッドの上でデッサンを描きました。

昭和35年3月8日の早朝、瑛九はスケッチブックに『ヒミツ』と題するひとつの詩をかきました。それは色鉛筆を取り替えながら、ひと文字ひと文字、力を振り絞るように、白い画面に刻まれています。

   「ヒミツ 三ガツ八ニチレイメイ
   くまんバチガ マイアサ サシタドガ 
   イタカ イタカ ナイテイマシタ
   クマンバチハ 白衣の天使ガ サスノデス
   ナンタラコトダベエ

   ソレデモ アルアサハ
   カナシクテ
   アマリアマリ カナシクテ
   イタイ イタイ クマンバチガ
   クレバイイト イノッタノデス」

「かきたいんでしょ、やっぱり、色を使って、あんな色々で、それが彼の最後の願いじゃなかったのかな、私、ああ買ってきてあげてよかったなぁと思います」


『ヒミツ』をかいたこの日の午後、瑛九の容態は急変します。

昭和35年3月10日、午前8時30分、瑛九は永眠します。48歳でした。

『福井瑛九会』の人たちが病床の瑛九を見舞った時、彼は浦和のアトリエに置いてある点描画を見てくれるように頼みます。
その時、瑛九は、その作品を見る方法まで細かく指示をしました。

「うちの庭へ描いた絵をずらーっと、こう、屏風のように立てなさいと、そして、その中で寝ころんでその絵を見ようと」

「百号、百号何枚でしたかね、とにかく八点か九点並べたんですわ、まったく感激でしたねぇ」

「青い空があるでしょう、それに何もねぇんですから、見えるのは瑛九の絵しかねぇんですから、大きな絵に、こうしてこういう具合に、ずっと囲むんですから。そん中で見た空、見て興奮したもんですよ、うん」


「その、点描の中で、瑛九は遊んでたんじゃないですかね、子供がいたずらして、泥まみれとか、土の、衣服も汚しちゃってかまわないで遊んでるのと、それと一緒でしたね、満足そうでしたからね」(都さん)

「やっぱ、彼が最後に追求しようとしてたのは、光じゃないかと思うんですけどね。暗闇の中からさ、光がぱっぱっと漏れてくるような感じってあるじゃないですか、ね、やっぱりそういうもんじゃないかと思うんですよ狙ってたものは」(池田満寿夫)


瑛九が生涯に描いた油絵はおよそ700点あまり。そのうち半数近くの300点を、世を去る前の三年間に描いています。その大半が大作でした。

最後の作品となった大作『つばさ』。
広いキャンバスいっぱいに、小さな点をひとつひとつ置いていった瑛九。
驚くほどの集中力、執念、そして、創作意欲。
それは、芸術とは何かを十代から問い続けた瑛九自身の歩みそのもの。
彼は自らを見つめ、おのれの身体を削りながらも、思うがままに自分自身の芸術を追い求めたのです。

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◆制作の思い出

ロケハンに初めて同行した番組です。
福井から埼玉、東京、茨城と、ディレクターのM氏、そしてカメラマン氏と一緒に歩きました。
福井では『福井瑛九会』の方々のお宅を訪ねました。
埼玉では瑛九の妻・都さんにお目にかかり、壁に瑛九の作品が飾ってあるアトリエでお話を聞きました。

お宅を辞す時、都さんは「アトリエに飾っている作品、どれでもいいからお持ちなさい」とおっしゃいました。ひたすら遠慮するM氏とカメラマン氏を尻目に、ぼくは「あれを」とリトグラフを指さしました。
それは手作りの額に入ったハガキ大の小品ですが、とてもかわいく、魅力的なものでした。
都さんは「あら、私が一番気に入ってるのを選んだわね。でも一番のものを選んでくれて嬉しいわ」とほんとに嬉しそうに言われ、「もうひとつどうぞ」と言ってくれました。
言われるままにもう一点、選びました。

この振る舞いで、ぼくはM氏に叱られることになります。
「ちったぁ遠慮しろ」というわけです。遠慮する気持ちは多分にあったのです。でも、都さんはお愛想で勧めているわけではないし、固辞するのは逆に失礼だと思ったのです。
ぼくは"礼儀知らずの遠慮なし野郎"になってしまいました。
M氏はぼくが最初にいただいた作品が欲しかったので、ちょっぴり悔しかったんじゃないかと思っています。

本取材の時も同行する予定でした。しかし、他の仕事のスケジュールが取材の日程にずれ込み、同行できなくなりました。取材をしながら構成していこうというもくろみがはずれ、予定が苦しくなりました。
そこでM氏がうまい手を考え出しました。取材の時にテープレコーダーを回しておき、カセットテープをぼくに送るというのです。

そして取材スタート。M氏からテープが届きます。それを聞きながらインタビューを起こしていると、次のカセットテープが届きます。次から次へとテープが届きます。
ぼくも意地になり、書き起こしたはしからFAXで送ります。
そんな日が10日くらい続いたでしょうか。ぼくの机にはテープがうずたかく積み上げられました。
そしてM氏のデスクはFAXで埋まっていたそうです。


◆後日談

この番組は日本民間放送連盟九州ブロックの「教養部門」に出品されました。
今は審査員の元へビデオテープが送られますが、当時は3人の審査員が監事局で行われる審査会で出品された番組を見て、結果を発表するという形をとっていました。
関係者が集まってモニターを見る会場も用意され、そこにディレクターのM氏も待機していました。

教養部門の審査が終わり、審査員がM氏の待つ会場に現れます。ひとりづつ番組とその点数をあげ、講評していくのです。
当時、最高点が7点、以下、1点づつ下がっていき、1点が最低点。つまり、21満点ということになります。
最初の審査員は、この番組に7点をくれました。M氏、胸の鼓動が高まります。
審査員二人目。この方も7点をくれました。M氏、心の中で「やった!」と叫びます。
そして三人目。期待に震えるM氏の耳に響いたのは「1点」という無惨な言葉でした。
この瞬間、開局以来初めての民放連地区大会最優秀賞がM氏の手からするりと逃げ去ったのです。

ぼくはこのいきさつを当日の夜、M氏の電話で知りました。M氏があまりに悔しがるのでちょっと笑ってしまったのですが、はっきり言ってひどい審査だと思います。

最低点の1点をつけた審査員の講評はこうだったそうです。
「僕はこの作家が嫌いです」
これは"講評"ではないでしょう。
人間はそれぞれ考え方も感覚も違います。好き嫌いはあって当然です。
ですから「この番組は好きではありません」というのなら、まだ話はわかります。番組の作り方、内容の問題でしょうから。
しかし、取り上げている取材対象者を「嫌い」と言って済ませるのは、審査の何たるかを知らない、救いようのないアホとしか言いようがありません。
このような人物を審査員に選んだ監事局の見識までが疑われてしまいます。

まぁ、相対評価なんてこんなもんですし、満点、満点、1点というケースは結構あるらしい_フで、気にするだけ時間と脳みそのムダというものですが。


3年後、M氏はプロデューサーとしてこの時の無念を晴らすことになります。


アホな審査員の"講評"はさておき、ぼく個人としては、今までに構成した200本ほどの番組の中で5本の指に入る出来だと思っています。
インタビューの内容も、映像も、編集、選曲、ナレーション、それぞれがとてもいいと思います。特に映像は抜群でしょう。
華やかな賞にこそ縁がありませんでしたが、古くなる内容ではないですし、いつの日かまたオンエアされることを願っています。


M氏とは1年に1本、ちゃんとした番組を作ろうという、暗黙の了解というか、ぼくの勝手な思い込みというか、そんなものがありました。そして、確かに恥ずかしくない番組を作ってきたという自負はあります。
「いらん」と冷たく言い放つ、態度のでかいぼくを「殴ってやろうかと思った」と言われたことも、懐かしい記憶となって残っています。

この番組の時は確か副部長さんだったと思いますが、その後、着実に昇進し、役員待遇になられたと風の噂に聞きました。
でも、今年の2月に福岡でお目にかかった時は、以前のままの、元気で飲んべえのおじさんでした。

また制作に携わられるのは、局長となられる時だけでしょうか?
どの局も制作部に元気のない昨今、「シェーン、カム・バーック!」的な心境です、ほんとうに。

(2003年10月記)



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